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無線歴史展示室とは?

無線通信の歴史についての理解を一層深めていただくため、横須賀リサーチパーク(YRP)の企業を中心とした皆様に展示品のご協力をいただき開館いたしました。 ぜひこの機会にご見学いただき、無線通信技術分野における先人の功績をご覧ください。

目次

ご利用案内

展示情報

  1. 横須賀リサーチパークについて
  2. 横須賀の歴史
  3. 無線通信の誕生
  4. ラジオ放送の始まり
  5. 真空管の発達の歴史
  6. 無線通信機の発達の歴史/半導体の誕生と発達
  7. 携帯電話の誕生と発達

展示品および写真を提供いただいた企業・団体

リンク

交通アクセス

ご利用案内(完全予約制)

見学は10名様以上の団体にて、ご希望日の2週間前までにお申込みください(説明ガイド付き)。

入 館 料: 無料

見学時間: 平日 午前10時~午後5時
(ご対応できない日時もございます。あらかじめご了承ください。)

なお、入館者数に限りがあるため、お申込みに際しご希望に添えない場合がございます。
また、YRPでイベント等が行われる際には、個人の方でもご覧いただける場合がございます。
日程については、こちらからお問い合わせください。

展示情報

1.横須賀リサーチパークについて

横須賀リサーチパーク(YRP)は、携帯電話の国際規格を世界統一するために1997年に設立された研究拠点です。公的な研究機関や大学の研究室および国内外のリーディング企業が集積し、2001年の第三世代携帯電話を誕生させました。 電波実験には都市部の電波との干渉を避けなければなりません。 丘陵に囲まれた谷部としての立地条件により選ばれたYRPは、都心へも好アクセスです。 海と緑に囲まれた豊かな自然の恵まれた環境の中で、国内屈指の研究開発が推進されています。

2.横須賀の歴史

1854年、横須賀の久里浜にペリーが上陸し開国を迫りました。 ペリーが2台の電信機を幕府と天皇に献上しました。その意図は、下の絵にあるように、世界は着々と電信網を構築していることを示すねらいがあったと思われます。

ペリーの久里浜上陸の図
横須賀自然・人文博物館所蔵 Heine画

1850年、電信網は世界で初めて海底ケーブルがドーバー海峡を渡りました。 そして1866年には、海底ケーブルが大西洋を横断し、ヨーロッパ、アジア、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、東南アジア、オーストラリアにニュージーランドまで電信がつながる時代になりました。日本だけが電信網につながっていませんでした。日本は、この技術力の差に、全力で追いつかねばなりませんでした。

陸上の通信ケーブル
海底ケーブル

1889年、日本はロシアの南下政策に対処するために、英国に軍艦を発注しました。この中に戦艦三笠がありました。 発注して間もない1895年、マルコーニは無線通信の実験に成功し、徐々に距離を伸ばしていきました。 海に浮かぶ船にとって、それまでは手旗信号やライトの点滅での通信しか無く、せいぜい通信距離は40kmほどでした。 無線通信が軍艦にとって不可欠の通信手段であることが世界中に理解されました。

日本に到着した戦艦三笠
公益財団法人 三笠保存会所蔵写真

このため日本は、マルコーニ社に無線通信機の購入を交渉しましたが、法外の価格を示されたため、やむなく独自に開発することを決意し、逓信省電気試験所の松代松之助技師の努力により、1897年には品川沖で無線実験に成功しました。

明治30年 月島における無線電信実験装置
電気試験所
松代松之助電信主任
第二高等学校
木村駿吉教授

マルコーニは着々と通信距離を伸ばし、1899年にはドーバー海峡50kmの横断に成功しました。
海軍でも無線機開発に着手し、1900年に無線電信調査委員会を設置し、松代技師や第二高等学校(現東北大学)の木村俊吉教授を招聘しました。同年、逓信省電気試験所では松代技師の後を引き継いだ佐伯技師により
千葉県の津田沼と横須賀の大津間の54kmで実験が行われました。

他方、無線電信調査委員会は横須賀の田浦(船越)の海軍工廠に通信技術者を集めて無線機開発に取り組ませました。この結果、1903年(明治36年)に通信距離が夜間1,000kmに達する三六式無線機が誕生しました。
ただちに全艦船に搭載するべく、無線機工場を設置し、昼夜兼行で製造しました。

横須賀海軍工廠の建物(東芝ライテック㈱に現存)

横須賀を選んだ理由は、幕末から造船所や製鉄所が開設され、軍港と兵器工場が置かれるなど、当時のわが国の重工業の中心地であり、多様な知識・技術が得られると判断したことによります。

左:江戸幕府勘定奉行小栗上野介忠順像
右:フランス海軍大技師 横須賀製鉄所首長 F.L.ヴェルニー像

出典:横須賀市史 上巻

提供:横須賀市

こうして1905年5月27日に始まる日本海海戦では、仮装巡洋艦信濃丸がバルチック艦隊を発見し、三六式無線機にて「敵艦見ユ・・・」を打電しました。この通信は戦艦厳島を経由して旗艦三笠が受電し、海戦の先手を打つことに成功し、圧倒的勝利を得る原動力となりました。

日本海海戦 旗艦三笠艦橋の図

こうして横須賀は日本の重工業の中心となり、超大型船舶の造船に貢献しました。しかし、時代の趨勢により、横須賀の象徴であった汐入のガントリークレーンも1975年に撤去され、代わって同じ年、横須賀の武(現:光の丘)に日本電信電話公社の横須賀通信研究所(略称:通研)が完成し、横須賀は再び情報通信の研究拠点となりました。

汐入のガントリークレーン
日本電信電話株式会社 横須賀研究開発センター

3.無線通信の誕生

1895年、イタリアの発明家、マルコーニが電波を使った通信に成功しました。無線通信は、ケーブルにつなぐことができない船との通信に大変な進歩をもたらしました。

送信機の中心
インダクション・コイル
受信機の中心
コヒーラー検波器

松代松之助や木村俊吉らが開発し日本海海戦の勝利の原動力になった三六式無線機は今、横須賀に保存の記念艦三笠に保存展示されています。

記念艦三笠
記念艦三笠内の無線通信室

4.ラジオ放送の始まり

1923年にラジオ放送が始まった米国では、多くの真空管ラジオが製造され普及していました。

6球オートダイン受信機
(米国 Atwater Kent社製)

1923年には日本で10万人の死者が出る関東大震災が起きました。放送の重要性が見直され、2年後の1925年に NHK(JOAK)の放送が開始されました。 しかし真空管は高価なため、多くの方はさぐり針式鉱石検波ラジオで聴いていました。

さぐり針式鉱石検波ラジオ
日本無線㈱ 製
(写真はYRPによる複製品)

5.真空管の発達と歴史

電波を効率よく安定的に送信と受信をおこなえるデバイスが真空管です。

真空管とは、電流の制御や増幅を行うことができる電子管のことで、限りなく真空状態に近いガラス管の中にフィラメントと電極を収めた構造をしています。フィラ メントに電流を流すと熱電子が発生し、電極に向かって移動します。この作用を利用して整流や電流の増幅・制御を行うことができます。

ガラスの内側に黒くならないスジができます。

Keith R Thrower 著 History of the British Radio Valve to 1940

左から テニスボール型、ナス型、ST管(2本)、GT管(2本)、MT管、NuVista管
旧海軍マークの刻印の真空管各種

横須賀海軍工廠は真空管の研究開発も行い、メーカーは海軍マークを刻印した真空管を納入しました。

交通アクセス

◆住所

神奈川県横須賀市光の丘3-4  YRPセンター1番館 

横須賀を選んだ理由は、幕末から造船所や製鉄所が開設され、軍港と兵器工場が置かれるなど、当時のわが国の重工業の中心地であり、多様な知識・技術が得られると判断したことによります。

◆交通案内

京急線YRP野比駅下車

京浜急行バス1番乗り場、横須賀リサーチパーク方面行き

野6・7系統以外)のバスに乗車、「光の丘5番」下車、徒歩3分。

YRPエリアマップ
アクセスの詳細は下記のページをご覧ください
アクセスの詳細